「妙秀寺」が歩んできた道には、当たり前のように過去があり現在があります。
まだ見ぬ未来を豊かなものにする為に必要なのは…過去を学ぶことなのかもしれません。もちろん、この「妙秀寺」にも語り継いでいくべきストーリーがあります。今回は、「妙秀寺」15世住職の中沢文能上人についてお話します。
▲本堂には15世の姿が見られる写真があります
享保16(1731)年、東京の「池上本門寺」と、鎌倉にある「妙本寺」の両山の25世住職であった守玄院日顗上人が、日蓮聖人450遠忌の時、長野へ法要に向かう途中に、山梨県韮崎市「大輪寺」に立ち寄り「塔中寺」をこの地へ移しました。その後、開基檀越(一番最初の檀家)の今村甚五左衛門の土地に移されたことにより「妙秀寺」は始まり、池上本門寺の直末になったのです。
▲日蓮聖人450遠忌の碑
▲開基檀越である今村家のお墓
実は「妙秀寺」には、当時を記す参考文献があまり残されていません。それは、明治の末期に火災に遭ってしまったためと言われています。そしてさらには、15世中沢文能上人が住職となる前の約60年間を無住寺院として過ごしてきたという過去があるのです。
「このお寺が無住であったことはあまり公にしてきませんでした。単純に良い印象を与えない気がしていたからです。しかし裏を返せば、60年間荒れ放題だったこのお寺を、こんなにも立派に再生してくれた15世のことをもっと語り継いでいくべきなのではないかと思うようになったのです」
と現住職である浅野文俊さん(17世)が話してくれました。浅野さんが中沢上人に初めて会ったのは、小学生の時だったと言います。とても穏やかで小柄な人というのが第一印象。そして、独特なお経の唱えかたをする住職だなと思い強く印象に残った方でもあったそうです。
荒れてしまった無住寺院に再び命を吹き込む
甲府市にある同日蓮宗のお寺の檀家さんであった中沢家の三男が、のちに妙秀寺15世の住職となる中沢文能上人です。当時、住職にお坊さんを志すことを勧められ、家族としては前例のなかった仏教の世界へ飛び込んだと言います。厳しい修行を終え戻ってきた中沢上人は、無住であった「妙秀寺」の住職を頼まれることになりました。
昭和16年より正式に「妙秀寺」の住職になった中沢上人。荒れ放題の「妙秀寺」は、お墓こそあるものの檀家さんがほとんどいない状況。中沢上人は、農協で働きながらお寺の再生に力を入れていきました。
「今ある備品などを見ると、奥さまから寄贈されているものが多いんです。檀家さんが少なかったからなのか、奥さまも働いていたのかもしれません。こんな地道な努力が見えると、夫婦でどれだけ苦労されていたのだろうと胸が熱くなります。中沢上人がこのお寺の住職になってから、もともとこのお寺にお墓のある方々はもちろん、新たに檀家さんになってくれた人が本当にたくさんいらっしゃったことが分かります」
と浅野さん。
60年という空白の時間を埋めるかのように、中沢上人は「水子供養」にも力を入れていました。通り沿いに今も残る手書きの看板を見ては、それはそれは多くの方々が「妙秀寺」に訪れたそうです。
「本堂を大掃除した時に、当時のお手紙やメモ書きなどが山のように出てきました。こんなにも多くの人がこのお寺に訪れ、そして、その一人ひとりと丁寧にやり取りしていたことを知り本当に驚きました。今でも水子供養に訪れる方は多いですよ」と浅野さんは話します。
▲水子供養塔
▲今も通り沿いに残る手づくりの看板
夫婦二人三脚で必死に再生に取り組んできた中沢上人。小柄で穏やかな印象からは想像も出来ないほど、力強い歩みだったに違いありません。
中沢上人は、平成18年(91歳)に惜しくもこの世を去りました。その後を追うかのように、平成22年に奥さまも亡くなられています。
「妙秀寺」の住職であるということ
「県内のお寺を案内している本を見ても、このお寺のことはあまり詳しく書かれていません。しかし本来は、こんなにもお寺の再生に尽力した人がいて、そんな15世が築いてきたお寺の住職を今こうして私がしていることが奇跡なのだと感じるのです。“縁”というのはいつどんな形で訪れるのか分からないものですね。地域の人や檀家さんに感謝を忘れずに私も先人に学びながら妙秀寺を守り続けていきたいと思います」
▲昭和56年に15世が建立された本堂
未来のことを考える前に、まずは過去を学ぶ。そのことが、今後の自分の在り方の道導になるということなのでしょう。「妙秀寺」の今を未来に繋ぐ為に、語り継がなければならない過去のお話です。
取材・撮影・文 / 堀内麻実(anlib株式会社)