特集
2019.04.01

第3回「妙秀寺周辺の歴史」

妙秀寺の前を走る県道6号線、通称山の手通りは、甲斐の国と大和朝廷(奈良県)を結ぶ重要な交通・情報網として、すでに奈良時代にあったと言われています。
この通りはかつて、韮崎市の穂坂町~長野県佐久市方面へ続く道だったことから「穂坂路」と呼ばれ、東の「御坂路」、西の「穂坂路」、この2つは周りを山に囲まれた地域で安全な道だったそうです。

戦国時代も軍事上の重要な道路として使われ、武田家の歴史に関わった穂坂路。そこには様々な史跡が今も残されているといいます。
今回は、その史跡等と共に妙秀寺周辺の歴史を振り返ってみましょう。

御座石

大永元年(1521年)に武田信虎は、今川家との戦い「飯田河原の合戦」で大勝。この戦いは、甲斐の国を統一するきっかけとなりましたが、その指揮をとった時に立っていた石『御座石(ございし)』が、今でも甲斐市・竜地の登美団地、児童公園内にあります。


▲希望ヶ丘児童公園内にある「御座石」

龍地の誕生

「飯田河原の合戦」で勝利した年に武田信玄が生まれました。
後に武田信玄は、甲府盆地を水害から守るため「信玄堤」を築き、その周辺である場所を『竜王』と名付けたそう。
さらに、天文10(1541)年。上杉・今川家がいつ攻めてきても分かるように、「西側の守り役、情報伝達役」として、広域に散らばっていた人を集めた場所を『龍地』と名付け、今の地域が誕生したといいます。
武田信玄が作った町には、「竜」や「龍」が付く名がつけられているそうですが、その真意は未だ分かっていないのです。しかし、武田信玄は「甲斐の龍」と呼ばれ、武田家の公式文章を見ると、『竜朱印』と呼ばれる判子が使われていたことが分かっています。そんなところから「竜」や「龍」という名が付けられているのでは?とも言われているそうです。


▲武田信玄の竜朱印 http://www.tenmeikan.jp/inkan/i_3.htmより抜粋

悲運の姫、武田信玄の長女・黄梅院を祀る寺「黄梅院跡(おうばいいんあと)」

甲斐市龍地にある滝坂の旧道を上りきる手前に「黄梅院跡」があります。
武田信玄と正室三条夫人の長女として生まれた黄梅院は、12歳の時に北条氏康の長男・北条氏政のもとへお嫁にいきました。これは、武田信玄・北条氏康・今川義元による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んだための政略結婚でしたが、子宝に恵まれ4児を出産。北条家からの愛情を受け幸せに暮らしていたそうです。
しかしながら、尾修桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったことをきっかけに、武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、北条家の城である駿河城を攻めたのです。そのため、黄梅院は甲府へ戻されてしまいました。翌年、わずか27歳で儚い人生に幕を閉じたといいます。死後、武田信玄は供養のため黄梅院と名付けたお寺を建てましたが明治初年に廃寺となり現在は、跡地に五輪塔などいくつかの石造物が祀られているだけになってしまいました。


▲現在、甲斐市双葉町の指定文化財になっている「黄梅院跡」

楊子梅

武田信玄が信濃(長野県)に信濃攻略へ向かう途中、休憩時に梅を楊子にさして食べたといわれる場所も甲斐市の龍地にあります。その時吐き出した梅の種が発芽し、木が生え、種に小さな穴が開いた実が成るという伝説まであるそうです。(実際は梅ではなく杏子みたいですが)現在は、山梨県指定の天然記念物にもなっています。

甲斐市竜地6460 井上邸内 ※現在は無人で見ることは困難だそう

穂坂路から関屋往還へ

天明6(1786)年、甲府市の僧であった元通(げんつう)が、伊勢国の「関の地蔵菩薩」を真似して作った「関屋地蔵」が、甲府市の塩部地域に祀られています。信濃や相模などから、その地蔵をひと目見ようと多くの人が穂坂路を通ったことから、いつしか穂坂路は別名「関屋往還」と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに、長篠の戦いで敗れた武田勝頼が新府城を焼き払い、岩殿城を目指した際、勝頼を追っていた織田信長、徳川家康が、この穂坂路を通ったのではないかという説もあるそう。


▲「関屋地蔵」は甲府市塩部地域。以前、交番があった場所の裏手にあるそう

このように妙秀寺のある「龍地」地域には、奈良時代から大きな役割を持っていた「穂坂路」をメインに、多くの歴史がありました。
穂坂路から関屋往還に名称が代わり、江戸時代になると「甲州道中」(美術館通り)が主要道路になりましたが、武田家滅亡の後、徳川家によって穂坂路に点在していた武田家の文化遺産はとても大切にされていたことが分かります。そのおかげで、今でもこのように多くの歴史に触れることができるのです。

妙秀寺のある周辺は、平安時代、三官牧「穂坂の牧」(茅ケ岳南麓台地一帯)という広々とした台地でした。武田信玄により誕生した「龍地」。現在は、その場所が多くの人が生活し、行き交う地域になっているのです。

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